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vol.6 「野球」 ダイジェスト版へ戻る

vol.6 野球 <完全版>


この間、新聞の取材を受けまして。『あの夏、今輝いて』という連載記事です。

あ、一応僕、桜美林という野球の名門校にいたんです。なんらかのプロモーションや、あるジャンルのワインの試飲のコメントといった取材はちょこちょこありましたが、僕自身のことが対象になるのは久しぶりで。なんだか新鮮でした。

その取材、3時間にも及んだんです。すっごく細かいことにまで質問されて。そのおかげか、自分のこれまでの半生が結構明確によみがえってきて、「あー、このことが今の自分に影響を与えているんだな」と発見がたくさんあったんです。

そういえば、このコラムでも、ソムリエになるきっかけやコンクール、今に至るまでのことは何度か取り上げてきましたけど、自分にとっての大切な12年間は話したことがなかったな、と。そこで今回は、そのへんのことを書きます。ワインやソムリエの話はほとんどでません。“それじゃあ……”という方はここで。

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小学校一年生のある日(季節は覚えてません)。ある中学校のグラウンドに兄と連れられていきました。兄が野球のクラブチームに入るためです。僕はただおまけでついていっただけだったんですが、気が付くと僕も練習の輪の中にいました。グローブはなく、素手でコーチが転がしてくれたボールを一生懸命追っていました。

結構素質や体質的にも恵まれていたみたいです。左利きということもあり(野球では左利きは重宝されます)4年生の頃にはジュニアクラスのエースになっていました。小学校時代に、“自分には野球の素質があるし、高いレヴェルにある”と自覚していた記憶があります。6年生の頃には地域限定の小さな新聞だったと思いますが、“関東五指に入ると評判の左腕”って取り上げられたこともあったんです。その評判がどうあれ、実際に長打や連打を浴びたことはあまりなかったと思います。

中学校に上がってからも、成長は続けられたと思うけど、どうだったかなあ。練習や努力を苦に思うことはなかったのでそれなりにやれていたと思います。年を追うごとに“甲子園を目指せる名門校に進みたい”と地区大会をよく見に行っていましたよ。当時は早実の荒木大輔投手がスーパースターでした。

名門クラブチームに所属して、“屈指の左腕”だったわけですから、成績もさぞかしと思われるでしょう。正直言います。さっぱりでした。

小中学校通して、優勝はない、全国大会もいけずじまいでした。チームに恵まれなかったのか? いや、いいメンバーばかりでした。何人もが名門校に進んだし、中学校のときのメンバーには何度も甲子園出場した奴もいる。ではなんで? というと、僕に勝負強さがなかったのかなあ。“結果はでない。一番なんてそうそうなれるもんじゃない”。そう思い込んでいましたね。

中学校2年生の時、この回を抑えたら悲願の全国大会出場という場面、3年生エースにかわってマウンドに立ちました。その差は1点。あっさり同点に追いつかれました。その後フォアボールなどで、ランナー二塁。そして初球、大きな飛球はレフトに守っていた3年生エースの頭上を越えていきました。サヨナラ負けです。3年生はそのエースをはじめみんな泣いていました。僕を責める人はいませんでした。僕のほうは内心、「あちゃー、またやっちゃったよ。まっずいなあ。でもいつもこれだよな」と受け止めていました。

「自分のせいで負けたということがわかっていない ! ひょうひょうとして、くやしくないの !!」と母親にきつく言われました。

 僕ね、“ウサギの心臓”って言われていたんです。登板が決まると緊張で顔が真っ青になる。ボールも練習の時より全然いかなくなっちゃう。

「博がいい結果を出すには、その“ウサギの心臓”をなんとかしなくちゃな」とよく馬鹿にされていましたよ。

あと、“負けず嫌い”と思われることはまずなかった。勝利に対する執念というやつもです。考えてみれば、それじゃあ勝てませんよね。

結果はでなかったけど、“名門校に進んで甲子園に”という気持ちは変わりませんでしたね。ある程度までやれる自信あったし。でも何がそんなに自分を駆り立てたのかは、よく覚えてないんですよ。ただ、兄も野球が大好きなのに、「博は私立に行くんだろ? 2人も(私立に)いくわけにいかないから……」と野球ではあまり期待のできない都立に進学を決めました。

「自分のやりたいことのために、犠牲が生まれている」と初めて知りました。

経験のある方はよくよくわかると思いますが、野球やるって、お金がかかるんですよ。支えてくれる母親の苦労もハンパじゃない。毎日弁当でしょう食べる量もすごい時期です。うちは3人兄弟みんな野球をやったので、母は延べ6年間毎日弁当を作ったことになります。週一の少年野球時代を含めると16年間! それと同時に頑固で大量な洗濯物を相手にしていた。お金がかからなくても大変なことでしょう? 兄の言葉がきっかけで15才ながらそんなことを考えるようになっていたんです。

「結果をださなきゃいけない」。初めてそう強く思いました。

 

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「まず、“絶対にやめない”。そしてベンチ入りをする。次はレギュラーメンバーになり、エースになる。甲子園に必ず出場して、プロ野球選手になる。これが恩返しになるんだ」。そう目標を設定して、打ち込みました。

恩師のコーチからの勧めなどもあり、桜美林を目指すことにしました。コネはなかったので受験してパスするしかない。当時の僕の偏差値では桜美林は難しい高校でした。「やめたほうがいい」と担任の先生からも他に野球が有望な高校を進められましたが、僕はチャレンジするほうを選びました。「野球さえやってればいい」と思っていた僕の猛勉強。そんなにつらくはありませんでした。

「こんなところでつまずいていられない。まず、“絶対にやめない”。そしてベンチ入りをする。次はレギュラーメンバーになり、エースになる。甲子園に必ず出場して、プロ野球選手になる」。

それが「これぐらいのこと、やってやる」と思わせたんですね。受験を間近に控えたころには、偏差値が合格圏内まで上がっていました。

そして、無事合格。

入学式は父親が付き添ってくれました。そして、仮入部初日。グラウンドではなく、体育館前の広場に制服のまま召集されました。真っ白なユニフォームの3年生マネージャー(男です)と共に部長(桜美林大学教授。わずか3人だった野球部を全国優勝に導いた桜美林野球創始者)がきて、冷ややかに言いました。「野球だけが人生じゃない。固執することのないように」

この言葉が3年後、僕にとってとても温かみのある言葉になり、今でもとても意味のあるものになっています。

続けてマネージャーから「明日から体力づくりのトレーニングをするので、ジャージ着用でここに集まるように」との指示が出ました。

翌日、授業が終わり3時くらいだったかなあ、校舎やグラウンドから離れた新体育館裏の空き地に入部希望者が集まりました。50人くらいだったと思います。

同じ歳には思えないほど、体ができあがっていて、落ち着いた雰囲気の奴もいれば、“運動やってたの?”と聞きたくなるくらいきゃしゃで不安の表情をただよわせている奴もいる。僕はどちらかというと後者の仲間だったんじゃないかな。桜美林中学卒とセレクション(いわゆる野球奨学生)で入った奴らが中心メンバーという感じで更衣室とかでも幅をきかせていました。

トレーニングでは何をするのかというと、グローブもボールもバットも使いません。

まず8kmマラソン。続いて下るとすぐ上りというV字の坂をひたすらダッシュ。それから腕立てに、腹筋、背筋運動、きつかったのは屈伸と伸脚。「なんで?」って思いますよね。 10分ずっと続けるんです。途中で足が曲がらなくなっちゃう奴や足がつっちゃう奴も続出でした。

終わったのは6時くらいだったかな。へとへとになって家に帰り、食べて、風呂に入って、布団にもぐり込みます。数秒後、なんだかふと目が覚めました。「早く寝なくちゃ。体を休めないとついていけない」と時計に目をやると、午前5時45分。起きる時間でした。寝た気がしないどころじゃない。目をつぶった覚えしかないんですから。

当時三軒茶屋に住んでいて、学校のある町田までは遠かったんで朝練がなくても早起きをしなければいけなかったんです。あれはつらかったなあ。

放課後。昨日の場所に行くと、10人位減っていました。マネージャーは淡々といないメンバーの名前をリストから外していました。トレーニングの内容は前日と同じ。翌日はまた5人位減ってました。“どうやら入部枠の15人になるまでこんな毎日が続くらしい”とのウワサ(でもこれは本当でした)が流れ始めました。

そして(新入部員のなかで)イジメが始まりました。体力面で劣っていたり、生理的に合わなかったりする人間を中心メンバーが脅したり、嫌がらせをしたりしたんです。

僕のほうはね、とにかく目立たないように気をつけました。更衣室でもひたすら無口を貫いて、「こいつ、ターゲットになるな」と思う奴とは話さず、仲良くならず……。心閉ざすしかなかったんです。

とにかく“やめられない”それだけだった。

でも“眼中にない奴”でいつづけるわけにはいかなかったんです。マラソンやダッシュのタイムを計測するからです。僕らからすれば、“部からは歓迎されていない”。でも部からすれば、“見込みのある奴はチェックしておきたい”。つまり、ここで“見込みのある奴リスト”に入っておきたいのです。上位でゴールする度に「こいつら(中心メンバー)の目の上のこぶになってないかな」と不安でした。

ゴールデンウイークに近づく頃、晴れて本入部となりました。20人くらいだったと思います。もちろん最初は球ひろい(とても得意でした)とベースランニングぐらいしかさせてもらえませんでしたよ。でもキャッチボールをしているときに監督が近くまできました。

何も言いませんでしたが、練習後部室にきて、「さっき左で投げてたのは君か」と声をかけられました。その後ブルペンで投げることになり(同期はまだグラウンドの外でした)、バッティングピッチャーも務めました。幸か不幸か、当時桜美林は深刻な投手不足に悩まされていて、便りになるのは3年生のエースのみ。2番手も2年生も投げれば猛打を浴びる。そんな状態だったのです。

僕のほか、リトルリーグ(小学部)全国優勝の投手とシニアリーグ(中学部)日本選抜の投手が同期でいて、部としては大豊作の期待があったようです。部長は上級生に「お前らが甲子園に行くためには安部(エース)以外にピッチャーが必要だ。こいつら(僕ら)を大事に育てないと先はないぞ」とくぎを刺しました。毎週一回2年生による、新入部員に対する“説教(=イジメ)”があることを部長は知っていたからです。

そのおかげか、結構大事にされました(優しくはしてもらえないけどね)。でも相変わらず結果はでませんでした。

 

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2年生の夏。おそらくこれが生涯最高のプレッシャーだったと思います。負けたら3年生の野球人生はおしまい。ミスは許されない。知っていました? こういうとき試合を決めるのはよくも悪くも2年や1年生なんです。

エースは肘の手術を乗り越え、復活を果たした根性の人です。1回戦の相手は東大進学率上位を誇る都立の(勉強の)名門。桜美林が眼中にいれる相手ではありませんでした。大ケガを乗り越えたエースを中心に士気は高まっていて、“負けるはずがない”。そんなムードでした。当日は雨。経験のある方はわかると思います。痛むんですよね、古傷が。中3で急速130km/hをマークした豪腕投手もその日はさえがありませんでした。

先制点を挙げたのは桜美林でしたがベンチに余裕はありませんでした。1点を返されると、たちまちあわただしくなったんです。「なんとか乗り切って欲しい」と願いながら、ブルペンで投球練習をしていました。ベンチに戻ってきた正捕手が、「球がきていません」と告げると、ブルペンの捕手が、「石田(の球が)すごくきています」と監督に告げたようです。

投手交代。

「投げぬいてほしかった」という気持ちがぬぐえぬままマウンドに立ちました。

第1球目、腕の震えがとまらない。足も地に着いている気がしませんでした。1人目は三振。確かにかなりいいボールが投げれていたと思う。その回は3人で抑えました。

2イニング目、1人目はフォアボール、ついでワイルドピッチ(暴投)でランナー2塁。いつもの悪いクセ。エースの先輩がたまらずマウンドに駆けつけてくれました。

「石田、大丈夫。頼んだぞ!」とボールを力強く僕に渡し、僕の腕の震えはピタリと止まりました。

「これでいける」。でもその時、交代を告げる監督が目に映りました。

あんな無念は後にも先にもありません。結局、桜美林はまさかの1回戦コールド負け(7点差)を喫しました。その年優勝候補の筆頭に挙がっていたわけではありませんでしたが、翌日新聞で大きく取り上げられました。

都立相手に1回戦コールド負けではOBも周りも黙っていません。八つ当たりともとれるようなトレーニングの毎日でした。学校にいけば、これまであまり野球部をよく思っていなかった生活指導の先生からもイヤミを言われたり、つらく当たられました。

監督はショックを訴え休部することになり、「どうなってしまうのだろう」というなか、春の甲子園出場を賭ける秋季大会に臨みました。ここで奮起、見事復活といきたいところが、2回戦で敗退。でも失望や迷いはありませんでした。僕らができるのは最後の夏に向けて、練習を積むしかないからです。

ある日、シャドウピッチング(鏡の前でフォームをチェックすること)をしていると、部長が、「石田、頭どうしたんだ?」と心配そうに声をかけてきました。直径2cmほどのハゲができていました。「以前、こんなふうになって髪が全部なくなってしまった奴がいたんだ。病院で診てもらえ」と。あまり、気にはしていませんでした。それどころじゃなかったし。

ハゲはその1ヶ所だけでしたが、毎日大量の脱毛がおこりました。朝起きるとマクラが黒っぽく見えるくらい。とにかく練習、練習。「甲子園は逃さない。それどころじゃない」と言い聞かせていたけど、やっぱり「髪の毛が全部なくなったらどうしよう」と思うことはありました。結局仲間が紹介してくれた針灸も治療院に通ったらすっかり治りました。これも結構お金を使わせちゃいました。

春になり、いよいよ最後の夏に向けて本格に始動です。練習試合が毎週組まれ、夏のメンバーが決まっていきます。登板の数日前、ピッチングをしているとどうもボールが手になじまない。というか握れている感触がありませんでした。

試合当日、練習では調子がよかった。でも“なにかが少し……”だったんですね。マウンドに上がるとその予感はとんでもない形であらわれました。ストライクがまったく入らない。もともとコントロールは悪かったんですけど、それどころじゃなかった。すぐ降ろされて、ひどく叱られました。

それ以来、全然投げられなくなりました。とんでもない方向にボールがいっちゃうんです。なんとかしなくてはいけない。バンドで腕を固定して、矯正を試したり、ノック(守備練習)を受けてステップをリズムよく踏んで投げてみたり、またノーステップスローやサイドスローととにかくいろいろやりました。原因が見当つかない。百戦錬磨の部長からも、「長い野球経験のなかでも今回はさっぱりわからない」と言われました。

先日の取材で記者の方から「プレッシャーが原因でそんなことが起こった投手を知っています」と聞かされました。れっきとした病名がありました。

監督はそれでも毎週、1試合目に登板させてくれました。「3点までは石田にやる」という約束で。フォアボールと暴投でたちまち3点献上で降板とうい試合が続きました。「石田が直らないと甲子園は難しくなる」と部長、監督をはじめ、チームから発破をかけられては、とにかく練習に励みました。

「みんな呆れているだろうな」と自暴自棄になる時期もありましたよ。でもそれを救ってくれたのは“みんな”でした。ある日曜の朝、アンダーシャツを着替えていると、「今日は石田が投げるから、絶対エラーするな。守るんだぞ !!というキャプテンの声が聞こえてきました。こんなこともあったな。練習後のある日、後輩がもうしばらく使っていない僕のヘルメット(バッティング練習なんて全然していませんでした)を「早くかぶってほしいって言っていますよ」ときれいに磨いてくれたり……。

「なんとかしなくちゃ」と「絶対、やれる!」という繰り返しのなか、いっこうに投球は改善されませんでした。そして、夏の大会のメンバー発表期限ギリギリとなった日曜日。僕に与えられた最後のチャンスです。相手校は小学校の頃同じチームでいつも肩組んで歩いてた勇二って奴がいてね。その勇二がいる高校だったんです。

「ヒロシ、投げんの?」。もちろん何も知らない勇二は懐かしそうに声をかけてきました。「おう!よろしく !!」なんて余裕はなかったな。「おい !聞いてんのかよ !!」となにも答えない僕に不機嫌そうに怒鳴りました。そしてラストチャンス、試合開始です。

“最後の最後でついにやりました。見事な復活を遂げたんです”とはいきませんでした・3点目を暴投で失い降板。その時打席に立っていたのは勇二でした。

「ヒロシ、自分の力出せよ」と帰り際に優しく声をかけてくれたのがとてもありがたくて、少し救われました。

ベンチ入りメンバー発表の日、僕の名前は呼ばれませんでした。

 

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「なにもしてやれなかった」と涙をにじませていた監督をはじめ、メンバーみんなが僕のため落胆してくれたのがわかって、悲しかったけど、本当に嬉しかった。キャプテンは言ってくれました。「甲子園を決めればもう一度チャンスがある!」ってね。

翌朝、いつも通り弁当を作り、僕を送り出してくれた母に、「おかあさん、ダメだったよ。ベンチ入り、できなかった」と伝えると、「そう。でもまだあるんでしょ。行ってらっしゃい」と少し笑って僕を見送った。どうやら母は乱調ぶりを僕が気にすると思って、こっそりとグランドにきていたらしい。その次の日、“おつかれさん”と小遣いをくれました。

引退も近づいたある日、部長が「石田、進路はどうするんだ」と聞いてきた。「就職します」と答えました。一時は進学も考えて、受験勉強も少ししたんだけど、大学に進む意味や目標をみつけられないし、「これ以上、負担をかけられないな」と思って。

じゃあ何しよう? ただサラリーマンないな。デスクワークって柄でもない。ふと小学校の頃、(金持ちの)友達の誕生日会に呼ばれていったホテルのことを思い出して。

「ホテルにします」と僕は部長に志望を伝えた。部長は「教え子には何人もホテルにいったけど、みんな女の子みたいに優しい性格の子達だった。大丈夫か?」と心配された。

“ウサギの心臓”と小学生のころ言われていた僕もこの高校3年間の試練のおかげですっかり鍛えられて。

ピンチになってマウンドに駆け寄るナインに「大丈夫だ!守備についてろ !!」と追い返したこともあるし、部長から何発もなぐられた時もよけるどころか、向かっていって突き飛ばしそうになったなんてこともあったな。ピッチャーは特に自分にも相手にも立ち向かっていかなきゃならない。気持ちを強く持たないと務まらないんですね。

話はずいぶんそれましたが、部長のそんな心配をよそに僕はすっかりホテル志望を固めていました。しばらくすると、「大学の就職担当に聞いたらホテルに行くなら専門学校にいってからのほうがいいそうだ」との部長のアドヴァイスで、専門学校進学に進路変更。

東京の有名シティホテル入社を目標に、ホテル学校に進みました。その2年間は仲間と相当バカやりましたけど、勉強だけはしっかりやりました。目的は彼女をつくることでも、高校時代のぶんまで遊びまくることでもなかったから。

そして、ホテルニューオータニを受け、内定をもらいました。そして、「もう失敗はしたくない、一流のホテルマンになる。そして10年後にはニューオータニという名前がなくても通用する人間になる」という目標を設定しました。

野球が教えてくれたものはたくさんあります。

まず、何かを目指すためには多くの犠牲が払われるということ。支えてくれる人や周りに感謝をしないといけない。またどんな犠牲を払っても目標のためにならなんでもやるという考え方はよくないということ。仮入部初日に部長が言った言葉にはそんな意味があったのだと思う。

仲間の大切さは本当に胸に焼き付いています。ぼくにとって仲間意識というのは成果を上回っています。それは決して馴れ合いということではなくて。僕らは高校3年間まったく結果をだせませんでした。おそらく桜美林高校史上最低の部類に入るでしょう。でも甲子園にでたけど、派閥があって、冷ややかな関係になっているチームがあったとしたら、僕らのほうがずっと幸せだと思うんです。あんまり合えないけど今でも大切な仲間です。個人主義と仲間意識は相反するものではないと思っています。

まだまだたくさんありますが、もっとも大きくて大事なものは“努力と目標”です。

まず目標についてですが、僕は高校時代、体育祭にも文化祭にも修学旅行にも参加していません。頭の中は甲子園にでることで一杯だったし、時間も睡眠と授業以外はすべて野球に捧げていました。寝るときも利き腕を下にしないようにしたり、真夏でも肘を冷やさないようにと長袖を着て、サポーターをしていました。後悔や苦に感じたことが一度もなかったのは目標がいつも支えてくれたからだと思うし、目標が成長させてくれたと実感しています。

努力の大切さは徹底的に植え付けられましたよ。僕が大切にしている言葉に、“努力するもの勝つ”、“天才は有限、努力は無限”というのがあります。最初のは母がいつもいっていた言葉で、家の壁からグローブまでいろんなところに書いてあったな。いいプレーや試合に勝ったりしたとき、誇らしそうに「ほら、努力するもの勝つのよ」と言っていました。

母は女5人姉妹(弟が一人います)でみんな足が速いのが自慢でリレーではみんなアンカーだったそうです。母だけは足が遅くて、バカにされてて、そこで自分から志願して無理やりしてリレーの選手にもらったそうです。その日から毎日暗いうちから砂浜で練習をしたそうです(母は北海道出身です)。そしたら、当日ごぼう抜きで一番になった。そのエピソードを何回も聞かせては、「努力するもの勝つ!」と意気込んでいたんです。

もうひとつの言葉は桑田真澄投手のものです。センスのある人っているじゃないですか。初めてやったのに上手く出来ちゃう人。僕はまったくその逆。最初は全然上手くいかない。コテンパンにやられて、「なんとかしなきゃ」と努力する。それで除々にできるようになる。なんでもそうでした。野球も、勉強も、仕事も(これはまだまだ結果は出ていませんが)、そしてコンクールも。

誰もひとつ才能を与えられているとしたら、僕にあるのは“努力の種”。決めたことに対してコツコツと努力をつづけることができます。たとえ失敗してもまた続ける。そしていつかは結果を出す。兄にも言われたんです。「お前にあるのは努力の才能だ」と。

あと、野球の練習ってキャッチボールに、素振りに、シャドウピッチング。ひたすら繰り返し、繰り返しでしょう。だからコンクールの準備でも同じ本や、同じところを何度も何度も復習する。あるワインを何度もテイスティングする。こんなことを続けることが体に染み付いています。

僕は誰かに先を越されることも、失敗することも怖くはありません。センスのある人、アピールの上手な人はポンポンと上がっていけるでしょう。でも、そう“努力は無限”でしょ。あと、どんなに頑張って結果が出なくてもへこみません。努力さえ続けていれば必ず報われる。上手くいかないのは努力が足りないから。その努力の才能が僕にはあると信じているから。逆にたいして努力をしていないのにポンと成果がでてしまうほうがずっと怖くなるでしょうね。

支配人になって1年半が過ぎます。まだ成果はあげられていません。周りはいろいろ言っていることでしょう。どんな愛情のない言葉も受け入れるようにしていますよ。でも予定通りです。だって、“努力するもの勝つ”ですから。

野球が教えてくれたものは大きいなとつくづく思います。

だって、いつも目標をもって、それに向かって努力をして、そして支えてくれる人や仲間を大切にする。ほら、素晴らしい人生が送れそうな気がしませんか?

 

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