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この間、新聞の取材を受けまして。『あの夏、今輝いて』という連載記事です。
あ、一応僕、桜美林という野球の名門校にいたんです。なんらかのプロモーションや、あるジャンルのワインの試飲のコメントといった取材はちょこちょこありましたが、僕自身のことが対象になるのは久しぶりで。なんだか新鮮でした。
その取材、3時間にも及んだんです。すっごく細かいことにまで質問されて。そのおかげか、自分のこれまでの半生が結構明確によみがえってきて、「あー、このことが今の自分に影響を与えているんだな」と発見がたくさんあったんです。
そういえば、このコラムでも、ソムリエになるきっかけやコンクール、今に至るまでのことは何度か取り上げてきましたけど、自分にとっての大切な12年間は話したことがなかったな、と。そこで今回は、そのへんのことを書きます。ワインやソムリエの話はほとんどでません。“それじゃあ……”という方はここで。
(これはダイジェスト版です。少々長くなってもよろしければ、こちらから完全版をご覧いただけます)
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学校一年生のある日(季節は覚えてません)。ある中学校のグラウンドに兄と連れられていきました。兄が野球のクラブチームに入るためです。僕はただおまけでついていっただけだったんですが、気が付くと僕も練習の輪の中にいました。グローブはなく、素手でコーチが転がしてくれたボールを一生懸命追っていました。
結構素質や体質的にも恵まれていたみたいです。左利きということもあり(野球では左利きは重宝されます)4年生の頃にはジュニアクラスのエースになっていました。小学校時代に、“自分には野球の素質があるし、高いレヴェルにある”と自覚していた記憶があります。6年生の頃には地域限定の小さな新聞だったと思いますが、“関東五指に入ると評判の左腕”って取り上げられたこともあったんです。その評判がどうあれ、実際に長打や連打を浴びたことはあまりなかったと思います。
名門クラブチームに所属して、“屈指の左腕”だったわけですから、成績もさぞかしと思われるでしょう。正直言います。さっぱりでした。
小中学校通して、優勝はない、全国大会もいけずじまいでした。僕に勝負強さがなかったのかなあ。“結果はでない。一番なんてそうそうなれるもんじゃない”。そう思い込んでいましたね。
僕ね、“ウサギの心臓”って言われていたんです。登板が決まると緊張で顔が真っ青になる。ボールも練習の時より全然いかなくなっちゃう。
「博がいい結果を出すには、その“ウサギの心臓”をなんとかしなくちゃな」とよく馬鹿にされていましたよ。
結果はでなかったけど、“名門校に進んで甲子園に”という気持ちは変わりませんでしたね。ある程度までやれる自信あったし。でも何がそんなに自分を駆り立てたのかは、よく覚えてないんですよ。ただ、兄も野球大好きなのに、「博は私立に行くんだろ? 2人も(私立に)いくわけにいかないから……」と野球ではあまり期待のできない都立に進学を決めました。
「自分のやりたいことのために、犠牲が生まれている」と初めて知りました。
「結果をださなきゃいけない」。初めてそう強く思いました。
「まず、“絶対にやめない”。そしてベンチ入りをする。次はレギュラーメンバーになり、エースになる。甲子園に必ず出場して、プロ野球選手になる。これが恩返しになるんだ」。
う目標を設定して、打ち込みました。
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